こんにちは、中野です。
いよいよ季節は晩秋、ちょっと遅いような気もしますが肌寒い日も増えてきて山の紅葉も色づいてきています。
そんな師走を目前に、日本全国をハッピーにさせてくれるような大ニュースがありました。
そう、日本の技術者、航空関係者にとって長年の悲願だった国産のジェット機が遂に完成して初飛行に成功したのです。
このニュースは大々的に報道されたので、ご存じの方も多いでしょう。
これだけの技術を持っている国なので、飛行機くらい作れるだろうと思ってあまりスゴさに気づいていない人も多いそうですが、これはものすごい偉業です。
時はさかのぼって、第二次世界大戦の末期。
当時の日本には、三菱重工業、中島飛行機や愛知航空機など、いくつかの航空機メーカーがありました。それらのメーカーが作っていたのは主に戦闘機、連合国から「ゼロ・ファイター」とも呼ばれたゼロ戦などを作っていました。
その性能の高さから連合国からは恐れられて、「ゼロ戦と出くわしたら逃げろ」という命令が出ていたこともあったとか。
それだけの航空機製造技術を持つ国を放置していたら、またいつ世界に戦争を仕掛けるか分からないということで、終戦とともに日本の航空機製造を連合国は禁じました。
これで、日本の航空技術は一旦途絶えます。
一旦途絶えた技術というのは、そうそう簡単に再生できるものではありません。
連合国はそのことを知っていたからこそ、終戦を機に一旦日本から航空技術を取り上げれば二度と復活することはないと信じていたのです。
その証拠に、その後長らく日本は航空機製造から遠ざかっていました。
しかし、日本は世界一と言っても良いほどのものづくり大国です。良いもの、技術の高いものを作らせたら世界一なのは、自動車や機械などの輸出実績を見れば一目瞭然です。
事実、その後の日本は飛躍的な技術革新を遂げて、世界的な航空機部品製造大国になりました。
ただし、あくまでも部品というところがミソです。
今や高性能な部品を供給する国になったものの、世界の航空機市場はかつての連合国が牛耳っているためになかなか割って入れないのです。
やはり航空機製造というのは相当オイシイ商売なのでしょう、そこにやすやすと参入はさせてくれないのです。
それでも戦後初の国産航空機としてYS-11が開発されました。
結構最近まで飛んでいたのでご存じの方も多いと思いますが、プロペラ機としてなかなかの性能を誇り、日本の航空機産業が復活したことを実感させてくれる代物でしたね。
今では民間航空会社からは姿を消して、自衛隊や海上保安庁などが使用するのみとなりました。
それでもYS-11が残した功績は大きく、これが「次はジェット機を作ろう」という壮大な夢の始まりになりました。
この話は長くなるので(笑)、次回に続きます。